校章富津市立竹岡小学校
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  竹岡の由来

昭和61年刊行 『竹岡明治百年誌』より

 この地は古くは「造海」(つくるうみ)と称し、後に「百首」といい、幕末になって「竹ヶ岡」と改めた。
「造海」は、漁をするための網を造る「造網」から名づけられたという。

 「百首」という地名は、中世、戦国時代に、房総武田氏すなわち真里谷氏が「造海城」に拠って
いたが、南の安房地方から勢力を伸長して北進して来た里見氏が、この「造海城」の攻略にかか
った時、城方から使いをやって、里見軍の大将に、百首の歌を即詠することを求め、それによって
開城するということになり、里見方は直ちに城内へ百首の歌を送り無血開城が行われたという伝
承に由来している。つまりこの時点で「造海」から「百首」に地名が変わるのである。さらに、それ
が幕末に「竹ヶ岡」と変わるのである。
 それは、幕末、内湾や沿海に海防の問題が起こり、奥州白河の城主松平越中守定信がこの地
を領し、海岸防備の任につくこととなり、「百首」の地に陣屋を構え、旧造海城址すなわち百首城
址の一角に砲台を築造した。その際、この陣屋に「竹ヶ岡陣屋」という異名をつけたのである。
 これは、松平定信の発案で、江戸時代に縁起のよい言葉として盛んに用いられた「松竹梅」に
ちなんで、房州の「波佐間」に造った陣屋を「松ヶ岡陣屋」ととなえ、房州の「白子」に造った陣屋を
「梅ヶ岡陣屋」と呼んだのに対するものである。
 陣屋の異名を「竹ヶ岡陣屋」とつけただけでなく、正式に幕府に願い出て、村名もそれまでの「百
首村」を改めて、「竹ヶ岡村」と変更したのである。

 これは、文化9年(1812)のことである。村名まで改めたのは3つの陣屋の中では、「竹ヶ岡」だけ
であり、ずっと後には、「竹岡」となるのである。
 陣屋は、安政5年(1858)廃止され、翌6年正月、その管理は村方に移管された。現在の竹岡小
学校敷地とその周辺、1町8反6畝12歩の広さであったとされる。

 

  学区の特色

  学区は市の南東部に位置し、豊かな自然に恵まれ、海岸線の漁村地域と白狐川に沿った農村
地域とに大別される。学区を国道127号線が縦断し、富津館山道のインターチェンジもあり、交通量
は比較的多い。
 地域住民の学校教育への関心は高く、高齢化、小子化が進むなか次代を担う子ども達に大きな
期待を寄せている。また、学校を支える地域諸団体・機関の学校への貢献度には高いものがある。
保護者も学校行事等の教育活動には積極的に参加し、協力も惜しまない。



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